特集 自分伝
~社長と呼ばれ~ 父親が 他界して数年が 経ちます。
.
車椅子生活が 始まって9年, 話す事も出来なくなった父親ですが 、 家ではいつもあの気難しく、また心配りを忘れない水野紙業の社長でもありました。
ある日心筋梗塞を発病し、その四年後には脳出血を患いました。その後は家族の協力の下、自宅で穏やかに過ごしておりました。
『孝行のしたい時には 親はなし』と、よく言ったものです。 親の苦労や気持ちが分かる歳になった頃には、もう親はいません。
「親は生きているうちに大切にしなければいけない!」と実感します。
父親が合紙を始めた昭和34年、まだ 合紙という仕事が他に少なく、「これだ !」と、ひらめいたそうです。
実家では運送業をしておりましたが、後を継ぐものも無く廃業となったようです。
名古屋市西区の自宅の小さな土間で工場らしいものを作り、水野合紙所がスタートしました。もちろん一文無しのスタートでありますので、資金もなく、苦労した事を聞きました。
銀行に何軒も何度も頭を下げに回り、しかし何度も追い返され、その繰り返しだったそうです。
こんな話を私にしてくれたのを思い出します。
「お金を借りることはこんなに厳しく辛いもの、何事も信用ある限りだ」と、本当にその通りだと思います。
なんとか資金の借り入れもでき、少しずつ信用もされるようになり、軌道に乗る事ができたようです。
私が生まれたのは昭和37年4月、創業から3年たった頃です。
仕事も順調に進み大変忙しくしている時の出産だったようで、母親も苦労したと思います。
家の前の公園で、何処にいるか分かるようにと 、赤い帽子をかぶらされ、一人遊んでいたのを覚えております。
私は、一生懸命手作業で紙の合紙をしている両親の姿をみながらも、不服に道をはずしてしまった事があります。
「何が不服だったのか?きっと寂しかったのでしょうね...」とは言え家族に迷惑や心配をかけ、本当に 親不幸をしました。
考えが甘かったと反省に反省を重ね、そんな時、父親から田中商店(㈱タナパックス)さんへ修行に行くように言われました。
父親も決死の覚悟で失礼を承知で、お願いに伺ったと思います。こんな私を田中商店さんは受け入れて下さり、本当に感謝の気持ちで一杯でした。
それが18歳の時でした。初めての事ばかりで、また年上の方も多くとても緊張しました。
しかし、みんなが私に仕事の事ばかりでなく、沢山の事を教えて下さりとても勉強になり、本当に感謝、感謝であります。
数年田中商店さんでお世話になり、昭和61年、25歳の時ようやく水野紙業に戻ってきました。
しかし、父親とは、なかなか話が合わず腹の立つ事ばかりで、ぎくしゃくした毎日でありました。
昭和62年 、 私も普通に結婚して、 二人娘に恵まれカミ さんには「娘に甘い!」と 言われながらも仲良くやっております。
現在、水野紙業は、北名古屋市にあり、名古屋市西区から移転して30年弱。
平成12年9月11日 もう忘れ去られようとしておりますが、会社の危機ともいえる東海豪雨がありました。
腰のあたりまで浸水して、大事な紙、商品がほとんど使い物にならなくなり、見るも無残な光景に、あ然とするばかりでした。
これもお得意様、仕入れ先様の方々が、復旧のお手伝いに来て下さり、そのおかげで、早く仕事復帰が出来るようになり大変助かりました。
有難うございました。今は、新メンバーにも恵まれ家族共々頑張っております。
これも父親が築き上げてくれた人脈あっての事です。
「目先の損得ばかり考えず、皆に信用をしてもらう努力をすれば、いざという時必ず力になってくれる」と、言っていた事もありました。
多年組合役員として、中小企業団体の発展に貢献したとして、賞状を頂きました。とても光栄なことです。
こうやって自分を振り返ってみると色んな方に助けられここまで乗り切ることが出来たと思います。皆様に感謝の気持ちでいっぱいでございます。
これからも感謝と反省の気持ちを忘れず、また感謝されるようにもなっていければいいと思います。
社長と呼ばれ早数年、まだまだ未熟者ですが頑張っていこうと思っております。